さようなら、おばあちゃん

雑記
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2017年3月21日、祖母(母方)がなくなりました。97歳でした。個性的なおばあちゃんで、声が大きく、よくしゃべり、時には感情を剥き出しにし、とても賑やかなおばあちゃんでしたが、静かに眠りにつきました。

体調を崩してから亡くなるまで

インフルエンザに感染する

2月頃中旬頃、母からおばあちゃんがインフルエンザに感染して、体調が悪化したと聞きました。それまでは自分で歩くことが出来ており、食欲も旺盛で、とても元気であると聞いていました。それがインフルエンザに感染してから体調が思わしくなくなってしまったのです。インフルエンザの予防接種はしていたのですが、それでも感染することはあるようです。

それ以来、自分で食事をとることが出来なくなってしまい、流動食を何とか食べさせるといった具合になりました。

おばあちゃん、危篤

2017年3月20日、おばあちゃん危篤の連絡を受けました。もう水を飲むことも出来なくなってしまったとのことで、もはや時間の問題とのことでした。高齢ということもあり、点滴等による延命治療はしないということで、病院へは搬送せずに入所していた介護施設で最期を迎える選択をしました。私の母は、最期を看取ってあげたいということで、その連絡を受けてからおばあちゃんに付きっ切りとなりました。

その翌日、亡くなる前におばあちゃんに会いたいということで、弟、妹と私の三人でおばあちゃんが寝ている部屋に集まりました。その時のおばあちゃんは、もうすでに目を空けることはなく、大きく息をしているだけでした。母と私たち兄弟3人でガヤガヤ話をしていると、おばあちゃんは腕を動かすようになりました。私たちの話し声がうるさかったのかもしれません。。(^-^;

その日は仕事帰りだったので、兄弟妹3人で夜ご飯を食べに行きました。考えてみれば、両親なしで兄弟妹だけで食べに行く機会というのは、これが初めてでした。おばあちゃんがこういった機会を作ってくれたんだなぁと思いました。

老衰~木が枯れるように亡くなる~

兄弟妹3人でご飯を食べて、家について少ししてからのことでした。母からおばあちゃんが亡くなった旨の連絡がありました。特に苦しむこともなく、静かに呼吸が止まり、穏やかになくなったとのことでした。

死というのは生まれるときとは逆で、色々なことが少しずつ出来なくなっていき、体の機能が衰えていき、木が枯れるときのように、最後に水が飲めなくなって亡くなっていくというのが自然な死の迎え方のようです。無理に点滴などで延命することなく、体の機能の衰えとともに自然と死へ向かっていく、理想の亡くなり方をしたのだなぁ、と感じました。これが老衰というものなのでしょう。

おばあちゃんは天寿を全うし、大往生だったといえるでしょう。

母は泊まり込みでおばあちゃんを見守っていたのでさぞかし疲れているだろうと思い、夜の23時過ぎでしたが、母を迎えに介護施設へ向かいました。そして、斎場へ移送されるおばあちゃんを見送り、母を実家まで送り届けて家路につきました。自宅に着いたのは、午前2時半。長い一日が終わりました。

母の実家は、すでに祖父が亡くなり、祖父母と一緒に住んでいた母の兄も亡くなっていたので、もう住む人がいません。母が幼少期から結婚するまでに過ごした場所であり、私も毎年のように訪れていた祖父母の家。それが、今はもう誰も済む人がいないと思うと、何だか寂しい気持ちになりました。

おばあちゃんとの思い出

通信制の大学で勉強をする

おばあちゃんが生まれたのは、1920年(大正9年)2月。その時代に生まれた女性ですから、大学に行くとか、勉強をすると行ったことに憧れがあったのではないかな、と思います。私が高校生だった頃、おばあちゃんが通信制の大学のスクーリングに通っていました。約20年前ですから、そのときすでにおばあちゃんは70歳台後半です。
「私は法政大学に行って勉強しているんだ」
と嬉しそうに話していました。
そして、私が慶応義塾大学に入学した時、おばあちゃんはとても喜んだようで、スクーリングの仲間に「私の孫は慶應に入ったんだ」と孫自慢していたようです(笑)

ウナギが大好きだったおばあちゃん

高校生の頃か大学生の頃か、記憶が定かでないのですが、母からの頼み事で池袋でおばあちゃんと待ち合わせをしたことがありました。
その時におごってもらったのが、うな重。おばあちゃんと二人で外食したのは、後にも先にもこの1回だけだった気がします。

当時はスマホがなく、どこのお店で食べたのか定かでないのが悔やまれます。

おばあちゃんの本業は洋裁

今や洋服を作っているのは、中国やベトナムなどの東南アジアなどでの製造が中心です。しかし、おばあちゃんが現役バリバリで働いていた頃、洋服は日本製のものが沢山あった時代です。おばあちゃんの家の1階の半分は洋裁の作業場となっており、業務用のミシンやアイロンが置いてあり、まさに仕事場そのものでした。

母の話によると、私が小学生の頃はすでにほとんど仕事は請け負っていなかったようですが、仕事場は残っており、たくさんの布とたくさんの糸、そして、時々仕事をしているおじいちゃんとおばあちゃんの姿が記憶に残っています。古き良き時代の昭和の仕事場というと、おじいちゃん、おばあちゃんの家の1階の仕事場が真っ先に浮かんできます。

結婚後も遊びに来てもらいました

うちの長女が生まれて2か月の頃、おばあちゃんが遊びに来てくれました。ページトップの写真は、そのときに撮ったものです。

最後にうちに遊びに来てくれたのが、4~5年前くらい。購入したマンションのお披露目に、おばあちゃんを招待しました。特にうちの長女にとっては、生まれてから今日までの11年間、ひいおばあちゃんと接点を持つことができて、良かったと思います。

おばあちゃんは、子供が大好きで、孫に会うと満面の笑みで、嬉しそうにしてくれていました。私が小学生の頃、おばあちゃんに会いに行った時と同じ笑みで。

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97年間、お疲れさまでした。私もおばあちゃんのように長生きして、病気に苦しむことなく、人生を全うできればいいな、と思います。

安らかに眠ってね。おばあちゃん。

 

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【編集後記】

昨日は、午後にお客様と打ち合わせがあり、その後、おばあちゃんのお通夜に向かいました。なるべく早く着くようにと、首都高中央環状線から4号新宿線へのルートを選択しましたが、中央環状線から4号新宿線へ向かうところで大渋滞。ナビの当初予定時間よりも1時間余分にかかってしまったため、大遅刻…。

本日の告別式は、長女を送り出してから斎場へ向かったのですが、今度は環七通りで向かったところ、やはり渋滞にはまってしまい10分程度遅刻してしまう羽目に…。帰り道もやはり渋滞してしまい大幅に時間がかかってしまいましたが、余裕をもって早めに出発したため、お客様との打ち合わせには遅れることなく到着できました。

おばあちゃん、慌ただしい参列になってしまってごめんなさい。。

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